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東京高等裁判所 昭和59年(ラ)394号 決定 1984年9月17日

抗告人

稲葉正

右代理人弁護士

三橋三郎

小高丑松

高橋勲

鶴岡誠

鈴木守

石井正二

白井幸男

抗告人

今井町診療所長

小田島光男

右代理人弁護士

小高丑松

高橋勲

鈴木守

相手方

川崎製鉄株式会社

右代表者

八木靖浩

右代理人弁護士

村松俊夫

小川徳次郎

畠山保雄

田島孝

明石守正

原田栄司

堀内俊一

山田弘之助

羽尾良三

雨宮定直

三上雅通

主文

原決定を取り消す。

相手方の本件文書提出命令の申立てを却下する。

抗告費用は相手方の負担とする。

理由

一本件抗告の趣旨は、主文第一、二項と同旨の裁判を求めるものであり、その理由は、別紙のとおりである。

二本件文書提出命令の申立ては、抗告人稲葉正を含む四二九名の者が原告となり、相手方を被告として、被告の千葉製鉄所から排出される二酸化いおう等の汚染物質による大気汚染によつて原告らが気管支ぜん息、慢性気管支炎、肺気腫等のいわゆる公害病に罹患し、若しくはそれにより死亡し、又は健康及び生命に対する被害を受けているとして、被告に対して健康及び生命に被害をもたらす汚染物質の一定量以上の排出の差止め等及び健康被害又は死亡によつて生じた損害の賠償を求める千葉地方裁判所昭和五〇年(ワ)第三二二号川鉄六号高炉建設差止等請求事件、同裁判所昭和五三年(ワ)第二七五号大気汚染規制等請求事件において、その被告である相手方から、原告患者らの病気、症状及び治療の経過、病因等を明らかにすることにより、原告らの主張と異なる他の疾病又は病因が存在する事実、原告らの損害の程度、内容等を立証するため、訴訟の第三者である抗告人小田島光男に対し、その所持する診療録及びこれと一体となつて診療の内容、経過、結果を示すX線等のフィルム、各種検査票及び処方せん(控)(以下「本件文書」という。)が民事訴訟法第三一二条第三号前段に該当するとして、その提出を求めてされたものであり、原決定は、これを認容したのである。

三ところで、民事訴訟法第三一二条第三号前段にいう挙証者の利益のために作成された文書とは、挙証者の法的地位を直接証明し、又は権利ないし権限を基礎付ける目的で作成されたものをいうと解すべきであり、また、挙証者の利益という場合の利益は、文書作成時において存在することを要し、かつ、直接的な利益でなければならないのである。立法論はとも角、民事訴訟法第三一二条第三号の解釈としては、このように限定せざるを得ない。

四そこで、本件文書が民事訴訟法第三一二条第三号前段に該当する文書であるか否かについて考えてみる。

およそ医師が診療録を作成する目的は、診療の都度、受診者の病名及び主要症状並びにこれに対する治療方法(処方及び処置)を記載すべきことを義務付けている医師法第二四条及び医師法施行規則第二三条から判断すると、受診者の状態と治療内容の経過を一定期間保存することにより、医師自身の診療における思考活動を補助し、医事行政上の監督の実を挙げさせ、もつて、診療行為の適正を期することにあると考えられるが、副次的には、患者自身又は患者と医師若しくは医療機関との間の権利義務に係る事実の証明をも目的とするものといえよう。これは、本件文書中の診療録以外のものについても、同様と考えられる。診療録がその記載内容の性質上患者、医師等診療行為の当事者以外の者の法律上の紛争において、その者の法的地位の証明に役立つ場合のあることは否定できないが、それは、結果として生ずることにすぎないのである。

したがつて、診療行為の当事者でない本件相手方にとつて、本件文書が、その法的地位を直接証明し、又はその権利ないし権限を基礎付ける目的で作成されたものといえないことは明らかである。

五以上のとおりであるから、本件文書は民事訴訟法第三一二条第三号前段の文書に該当しないといわざるを得ず、相手方の抗告人小田島光男に対する本件文書提出命令の申立ては失当として却下すべきであり、これと判断を異にする原決定は不当であつて、本件抗告は理由がある。

よつて、原決定を取り消して相手方の本件文書提出命令の申立てを却下し、抗告費用を相手方に負担させることとして、主文のとおり決定する。

(賀集唱 梅田晴亮 上野精)

〔抗告の理由〕

一 原決定は、本件提出命令の申立てにかかる診療録等の文書が、診療録ないしこれに準ずる文書として、医師及び患者である原告らのためのみでなく、その疾病について加害者とされている相手方(被告)と本件疾病との関係、その法的地位についての証拠とされるためにも、その意味で相手方(被告)の利益のためにも、作成された文書ということができるとし、民訴法第三一二条三号前段の文書に該当し、かつ、その証拠調べの必要性も存在するとして、その申立てを認容し、原審相手方たる今井町診療所所長小田島光男に対し提出命令を発したものである。

二 しかし、原決定には右民訴法第三一二条三号前段の解釈と適用を誤つた違法がある。

1 本件文書は、民訴法第三一二条三号前段の文書には該当しない。

相手方(被告)が、本件提出命令の根拠とする民訴法第三一二条三号前段の「挙証者ノ利益ノ為ニ作成セラレ」た文書とは、後日の証拠のために挙証者の法的地位や権限を証明し、または、これを基礎づけるため作成された文書を指すと解すべきである。

そして、本件で問題となつている診療録等の文書は、診療経過を記録し、診療行為に資することによつて、医師と患者のそれぞれにとつて診療行為の適正を図る目的で作成されるものである。

すなわち、医師は、記録された診療経過の点検によつて、より適正な診療を実現することができるし、また患者の求めに応じて診療経過を説明することができ、患者も、診療録に基づいて自己の診療経過を知ることができるとともに、診療について疑問・批判すべき点があれば医師に対してその指摘をし、医師の適正な診療の回復を求めることができるのである。

こうして診療録は、第一義的には、診療行為の適正を確保するためとともに、第二義的には、患者と医師の間において、医師の診療をめぐつて生起する法的紛争の重要な資料とする目的を認めうるであろう(しかし、これとていわば例外的に診療録等を紛争の証拠とする場合がありうるというべきものなのである)。

したがつて、診療録等を紛争の証拠とすることが認められるのは、診療録等の前記作成目的からして、医師と患者との間の紛争に限られるものである。このように解さずに、医師と患者以外の第三者が診療録等を紛争の証拠とすることを認めることになれば、医師と患者間の信頼関係を破壊し、結局は、診療録等の作成目的である適正な診療を確保することができなくなつてしまうであろう。

したがつて、医師・患者以外の第三者との関係では、診療録は、「利益文書」に該たらないと解すべきである。

よつて、本件においても、診療行為の当事者でない被告にとつて本件文書は「利益文書」に該たらないのである。

2 本件文書提出の必要性はない。

(一) 原決定は、原告らが本件疾病に罹患しているか否か、その病因が大気汚染であるか否かについて争点となつていることから、直ちに本件文書は「最も直接的な重要証拠の一つとしてその証拠調の必要性は大」であるとして、本件文書の提出命令を認めたが、個々の患者についてその疾病罹患の有無、病因如何という点につき審らかにしなければならない点があるのかどうかということをまつたく審理していない。

(二) 患者原告らは、いずれも、医師、医学者、法律家より構成される千葉市認定審査会の厳格な審査手続をパスした認定患者であつて、本件疾病に罹患していることは明らかである。

また、患者らの本件疾病への大気汚染の影響の有無については、個々の患者に対する個別観察、したがつてまた、個々の患者についての診療録等の検討ではわからないのであるから、本件文書は提出の必要性がない。

3 本件文書を提出することによつて生じる結果の重大性

以上のとおり本件文書は、民訴法第三一二条三号前段の文書に該当せず、かつ、証拠として提出させる必要性がないばかりか、これを提出することによつて、種々の不当な結果を招くことは明白である。

(一) 訴訟の遅延

本件訴訟は昭和五〇年五月提訴以来既に九年以上が経過し、患者原告のうち約一割に当たる九名が死亡するに至つている。このような現状に照らしても、訴訟の遅延は見過ごすことのできない重大な問題となつている。この上、本件文書が提出されることにでもなれば、さらに著しい遅延を招かざるを得ない。

即ち、カルテ等診療データはぼう大な量である。これらが、患者原告全員について提出されれば、当然に、被告川鉄は証拠資料として利用し、書証として提出するばかりか、これを分析して、学者を動員して「症例検討」とか、「鑑定書」なる書面として提出してくるであろう。

当然ながら、原告もこれへの対処にせまられる。

まず、翻訳にかなりの時間と労力、費用がかかるし、さらに全資料について逐一、検討を余儀なくされ、そのうえ、反論を構成することとなる。そして、分析の当否評価の当否をめぐつて、延々と論争がつづくこととなろう。

被告川鉄は、例えば、他病にかかる事柄など真実は本質的に無関係な事柄として、診療上処理されてきたことも、意味ありげにとりあげ、一般論を述べたて、些細なことまで診断治療の当否についてあれこれ、悪意の憶測を逞しくして、まことしやかに誤診に導くのであろう。

これらについて、原告は逐一反論をつくし、論破しなければならなくなり、原告の負担は相当なものとなる。

こうした論争はかなりの時日を要することは必至である。

このような「作られた争点」については、さらに意見書、鑑定書などの提出合戦が続き、さらには、関係医師を証人として喚問しなければならなくなることも予想される。

当然、本人尋問も続いて行うこととなる。

かくして、訴訟は混迷の度を強め、見通しも立たない程長期化することは明らかである。

(二) 医師の守秘義務、患者原告のプライバシー等の権利を著しく侵害する。

(1) 患者の基本的人権

患者は、すべての医療従事者から人間として尊重され、最善の医療を受ける権利を有する。

これは、憲法一三条の個人の尊厳の保障規定に該当する事項であり、また、憲法二五条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、いわゆる生存権に基づく国民の基本的人権でもある。

すなわち患者は、その最も基本的な権利として、すべての医療従事者から人間として尊重され、すべての患者はその生命、身体を尊重され、かつ、病を自らなおそうとする主体として遇され、かつ尊重されなければならない。

また患者は、最善の医療を受ける権利を有する。そして患者は、その承諾なくして、プライバシーに属する事実を自己の診療に直接関与する医療従事者以外の第三者に対し開示されない権利を有するのである。

(2) 医師の守秘義務

医師は、医療業務という国民の生命をあずかる重大な責務を担うとともに、資格制度によつてこれを独占する地位にある。このような立場に鑑みれば前述した患者の基本的人権の尊重は基本的原理でなければならず、その期待を裏切るようなことがあつては断じてならない。これは、医師の最も基本的な倫理であり、職責であるといつてもよい。

患者のプライバシーの権利との関係で、もう少し具体的にみてみることにする。

前述したとおり、患者にとつてプライバシーの保護は憲法上保障された基本的人権である。医師はこれを最大限に尊重すべきことは言うまでもない。したがつて、医師は、医療業務を遂行する上で知り得た患者のプライバシーに関する事項を医療目的以外には用いない義務、そして、患者の承諾なくして他に漏らさない義務を負っているのである。

(3) 本件文書と文書提出命令

患者のプライバシーの権利、及び医師の守秘義務は前述のとおり、患者の基本的人権に深くかかわりをもつ。

ところで、カルテ等が法廷に顕出されれば、必然的に患者のプライバシーの権利は著しく侵害されることになるし、同時に医師の守秘義務をも侵すことになる。

したがつて、裁判所が患者以外の第三者が申し立てた文書提出命令を認容することにでもなれば、法的に認められた患者の人権とこれまた法的規範にまで高められた医師の守秘義務とを自ら否定し去ることになる。故に、かかる申立てが却下されるべきことは論をまたない。

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